ロケットでもミサイルでもなく――再び、なぜ「飛翔体」なのか

以下に掲げるのは、常用漢字表の前言だ。

  • 1 この表は,法令,公用文書,新聞,雑誌,放送など,一般の社会生活において,現代の国語を書き表す場合の漢字使用の目安を示すものである。
  • 2 この表は,科学,技術,芸術その他の各種専門分野や個々人の表記にまで及ぼそうとするものではない。
  • 3 この表は,固有名詞を対象とするものではない。
  • 4 この表は,過去の著作や文書における漢字使用を否定するものではない。
  • 5 この表の運用に当たつては,個々の事情に応じて適切な考慮を加える余地のあるものである。

これは常用漢字表が適用される範囲をさだめたものだが、上記をたった一言、「広場の言葉」とまとめたのは常用漢字表の作成当時の国語審議会委員を務めた岩淵悦太郎だ。毀誉褒貶、相半ばする常用漢字だけれども、私達が「広場の言葉」を持つことの意味は、もう一度考え直した方がいい。


今回の朝鮮民主主義人民共和国が引き起こした騒ぎについては、迷惑この上ないことであり、政府は非難決議の採択にむけ、国連安保理に働きかけるべきと考える。

ただし、それは外交の場でのことだ。今、日本にいるのは日本国籍をもっていたり、日本語が上手だったりする人ばかりと限らない。外国からのミサイルは、総ての人達の頭上に等しく降ってくる。いったん有時があれば、日本語がうまく使えない人々に対しても正確な情報をすばやく伝えなければならない。そうした情報を伝える言葉こそが「広場の言葉」ではないだろうか。

もうひとつ、私が心配でならないのは日本国籍を持たない在日朝鮮人在日韓国人在日コリアンとよばれている人々だ。以前テポドン騒ぎの時、まったく何の関係もない朝鮮学校の女生徒、小学生が、日本国籍を持つと覚しき暴漢に襲われたことは記憶に生々しい。私達はあのような犯罪をおこす愚か極まりない隣人をも持っている、それが現実だ。

今回もこうした騒ぎが起こらないことを切に祈っているのだが、そこで考えるべきなのが、朝鮮民主主義人民共和国が発射したものを「ロケット」とよぶべきか、それとも「ミサイル」とよぶべきか、はたまた「飛翔体」でよいのかということだ。

これをミサイルと決めつけるのは、迷惑な隣国を持つ政府として、外交の場に持っていく言葉としては相応しいのかもしれないが、私達住人に対して使うべき言葉とは思えない。政府が率先してそんな言葉を使えば、愚か者の憎悪に火をつけ、また罪もない女子学生や小学生に被害がでるだろう。

いや、問題は愚かな犯罪を誘発することだけではない。そもそも、多くの報道が明らかにするとおり、ロケットとミサイルを分けるのはペラペラな一枚の薄紙でしかない。

なにより「広場の言葉」は間違っていてはいけない。であるならば、少なくとも発射前の段階から、ミサイルともロケットとも決めつることはできない。この目で確かめられないのだから当然だ。

今回、日本国政府が発射前の段階で「ロケット」も「ミサイル」も選ばなかったことに対しては(ある意味当然ではあるけれど)一定の評価をすべきだ。「飛翔体」という中立的な表現があったからこそ、私達はしなくてもよい馬鹿げた熱狂に身を埋めなかったのだ。

ところで発射後の今、本当にこれをミサイルと呼ぶべきなのだろうか? 少なくとも私は、まだ房総沖数千キロの彼方に没した物体に、爆発物が積まれていたという報道は目にしていないのだけれど。

今、ミサイルという表記を選んでいる人々は、いったい何を根拠にしているのだろう。もしや、どなたかが垂れ流すミサイルという表記に踊らされて、私達は見るべきものを見失っていないだろうか。その意味で現在の段階に至っても、私はこれをミサイルと呼ぶことにためらいを覚える。

だからこそ「広場の言葉」にこだわりたい。「広場の言葉」としては中立的で、しかしその物体の本性を正しく形容した言葉が望まれる。なによりその「広場」には、日本国籍をもたない、あるいは日本語がうまくしゃべれない人もいるのだ。あまり利害に熱中して安易にミサイルという表記を選ぶのは、「広場」全体の利益にとって良いことなのだろうか。

そして、中立的であるにせよ「飛翔体」という表記が、この土地に住むすべての人に分かりやすいものなのかどうか、被害がなかった今こそ、冷静に考え直すべきと考える。繰り返すが、「翔」の字は表外字なのだから。