パブリックコメントへの応募(書きかけ)先行公開版


以下は、パブコメへの応募用に書いたものです。まだ3分の2くらい。残りも順次公開していきます。もしも誤りがあったらご指摘ください。


改定常用漢字表試案への意見

漢字表の名称について

『国語分科会漢字小委員会における審議について』(2008年国語分科会了承)では、「今後更に検討すべき課題等」のひとつとして、「「常用漢字表の定義」及び「新漢字表の名称」の問題」を挙げ、以下のように述べている。

また、常用漢字という名称でありながら「常用性(≒出現頻度)」以外の要素で選定されている漢字が入っている一方、「常用性」が認められながらも選定されていない漢字がある。この点は現行の「常用漢字」の性格をあいまいにしているところである(後略)(p.7)

この一文は真正面から本質的な問いを投げかけたもので好感が持てたが、結局あたらしい名称には生かされなかったことを、いかにも残念に思っている。『改定常用漢字表』という答申名が従来の国語施策を継承するものであることは理解するが、そうした命名の仕方が改定後の常用漢字表にとって本当に良いことなのかどうか、改めて考えるべきではないだろうか。

たとえば常用漢字表に関して、よく聞く世間一般の誤解に「なぜ国が個々人の漢字の使い方を指図するのか」というものがある。もちろん「現代の国語を書き表す場合の漢字使用の目安」である常用漢字表は指図などしていない。しかし、そうした一種の「不快感」が広く共有されているのも確かだし、だからこそ常用漢字表への関心を遠ざけているようにも思える。

私は常用漢字表を、全ての局面で墨守すべきとは思っていない。改定常用漢字表の「コミュニケーションの手段としての漢字使用」という考え方が示すとおり、これは多くの人とコミュニケーションをする際に使うものだ。したがって自分を表現する文章、あるいは私的な文章にまで、これを持ち込む必要はない。

おそらく前述の「不快感」を感じている人々の多くは、常用漢字表が用途を限定したものであるということをご存知ないのだろう。もしそうだとすれば、なにか制定者側にミスリードの責任はなかったろうか?

ここで想起すべきは、冒頭に引いた『国語分科会漢字小委員会における審議について』の問題提起だ。そこでは現状にそぐわない名称が付けられていることで、常用漢字表自身の性格も曖昧になってしまっていることを指摘していた。ということは、その用途・性格をストレートに反映した名称に変更すれば、世間の誤解は解け「不快感」も解消するのではないか。

かつて国語審議会漢字部会で主査をつとめた岩淵悦太郎は、1977年に以下のような文章を書いている。

この表が何を目的とするものであるかについて議論があった。(中略)いかなる分野でも、いかなる場合でも用いられる漢字表ということでは、とても成り立ちそうもない。そうかと言って、「一般社会」ではあいまいに過ぎる。そこで、具体的に、法令・公用文書・新聞・雑誌・放送など、一般大衆を対象とする文章を書かなければならない分野で用いるための表と考えた。(中略)
これらは言わば公共的なものである。私的なものや、専門分野に属するものは、一応除外して考えることとした。言わば、公共的なコミュニケーションの効果をあげる文章を書くためのものと考えたのである。そのためには当然、受け手に理解され、事柄が受け手に伝わるものでなければならない。
私は、コミュニケーションの場を、“仲間うち”と“広場”とに分けて考えている。以上に述べてきたことは言わば、“広場”のコミュニケーションである。
岩淵悦太郎「試案新漢字表の考え方」、『言語生活』307号、1977年、筑摩書房、pp.21-22)

ここでは国語施策が示す漢字表の用途について、明確に〈公共的なコミュニケーションの効果をあげる文章を書くためのもの〉と言っている。この岩淵の一文にもとづいて、私は『公共漢字表』という名称を提案したい。おそらくこの名称に対しては、以下のような反対があり得よう。

  • 常用漢字表』に比べて、役割がより小さく感じられてしまう。
  • 「公共」では、お役所専用の漢字表のように思われる。

しかし、むしろ「常用」という言葉が本来の用途に過ぎた大きさだったのであり、だからこそ人々の誤解を招いたことを思い出していただきたい。また、「公共」という言葉は、岩淵の前掲文章にも明らかなように、社会全般をあらわすのが第一義であるはずだ。常用漢字表の制定から28年、ここで身にあった服に着替えるべきと思うが、いかがであろうか。

字種・字体 (1) 「頬、填、剥、叱」について

以下、JIS X 0208例示字体を「頬A、填A、剥A、叱A」改定常用漢字表にある通用字体を「頬B、填B、剥B、叱B」、一括して呼ぶ場合は前者を「A字体」、後者を「B字体」と呼ぶ(なお、前回も書いたが、ISO-2022-JPでは改定常用漢字表をすべて表現できないにも関わらず、それへの配慮がないままパブリックコメントをメールで受け付けたことを、私は大変残念に思っている)

情報機器から改定常用漢字表をみたとき、最大の問題点は現在の携帯電話のほとんどが符号化できないB字体がふくまれていることだ。これについて、私は『INTERNET Watch』誌(インプレス)に以下のような文章を寄稿した。


あらためて簡単にまとめると、改定常用漢字表「表の見方」にある「付」の一文は、画面表示の問題に限っていえば解決できるかもしれない。

情報機器に搭載されている印刷文字字体の関係で,本表の掲出字体とは異なる字体(中略)しか用いることができない場合については,当該の字体の使用を妨げるものではない。(『改定常用漢字表』P.2)

しかしWindows Vista以降やMac OS X10.5以降等のパソコンからB字体をメールなどで送信した場合、ほとんどの携帯電話は「?」などの意味不明な文字に置き換えてしまう。つまり、前掲「表の見方」の一文は画面表示や印刷の問題は解決できても、情報交換・情報処理といった情報化時代特有の問題の前には、まったく力を失ってしまう。

この問題が厄介であるのは、「新しい常用漢字表にもとづこう」と考えた善意の人が、意識せずに文字化けを撒き散らしてしまうことだ。前掲記事の標題にあるように、改定常用漢字表Unicodeへの移行を促すという一面をもつと考えられるが、だからといって発生するであろう混乱を見過ごしてよいとは思えない。

この問題を根本的に解決するには、A字体を通用字体にするか、これらの文字の収録そのものを取り止めることだ。一部にはA字体を許容字体にするよう提案する声もあるが、それは画面表示を解決するにとどまる限定的な対策であることは指摘しておきたい。

「叱」については「凸版調査(3)」で「叱A」が1,837位、「叱B」が2,168位と、むしろ改定常用漢字表に収録されなかった字体の方が頻度が高いことが分かっている(『漢字出現頻度数 順位対照表(Ver.1.3)』p.37、p.44)。もともと表外漢字字体表でも「叱A」は印刷標準字体の個別デザイン差であることから、「叱A」が通用字体になることへの抵抗は少ないはずだ。

しかし、残りの「頬A、填A、剥A」に対しては、使用頻度の点からいっても、またこれらが表外漢字字体表の簡易慣用字体ではないことからいっても、これらを通用字体にするべきとは思えない。しかし、前述のようにB字体のままでは文字化けは発生するわけで、私自身も悩みながらこの文章を書いている。いっそのこと、収録しないことにするのも一案かもしれない。

字種・字体 (2)「諜」の字種削除について

今回の試案では、第1次試案段階から比較すると「聘、憚、哨、諜」の4字が削除されている。このうち「諜」の削除理由が私には分からない。

3月のパブリックコメントでの意見をまとめた『意見募集で寄せられた意見(追加及び削除希望の字種一覧)』をみると、削除要望が他の3字はすべて6件以上あるのに、この字だけは3件にとどまっている。さらに『漢字出現頻度数 順位対照表(Ver.1.3)』によると、「凸版調査(3)」での「諜」の使用頻度は2,246位であり、他の「聘(3,064位)、憚(2,749位)、哨(2,824位)」と比べると高順位だ。この字が話題に上ったのは第34回漢字小委員会に限られるが、とすると、この字の削除はこの回の以下の出久根委員の意見が通ったものと考えざるを得ない。

○出久根委員;ただ今の笹原委員のお話の「哨(しょう)」ですが,これに関連しまして,例えば削除すべき文字の50番に「諜(ちょう)」という漢字がありますね。これは,「間諜」,「諜者」―スパイと言うのか,こういうもので使われます。これなんかもどちらかと言うと軍事用語ではありませんけれども,何かそういう雰囲気の言葉でして,現在はどうなんですかね,この「諜」という漢字はそんなに使うものでしょうか,これはどういうわけで入ったんでしょうかね,もともとあったものでしょうか。(『第34回国語分科会漢字小委員会・議事録』p.11)

この発言は、科学的な根拠に乏しく、単に「諜」という字に抱いている主観的イメージを語ったものに過ぎない。常用漢字表に「軍事用語のような雰囲気」を持った漢字を入れてはいけないと主張したいなら、まずその根拠を示すことが必要であるはずだが、前掲の発言のどこを探してもそれはない。

そもそも私は、こうした特定の分野で使われていることを理由に排除する発想自体に疑問を感じる。この時の委員会では、字種をめぐる審議の後で、「淫,呪、艶,賭」という漢字が教育的な見地から入るのが望ましくないという意見が教育界出身の委員から出され、それに対して、特定の文字が教育上悪い字だとするのは、言葉狩りにつながらないかとの指摘がされる一幕があった(同議事録 p.30)。同委員の「諜」への考えも、まさに同じ指摘が可能であり、危険で安直な発想と言えないだろうか。

字種をめぐる審議に話を戻すと、そこでは他の委員から「聘、憚、哨」の削除要望が出されているが、それらはいずれも客観的な根拠をあげている。そうした意見に対して、私個人は必ずしも賛成できるものばかりではないのだが、大事なことはそれらの委員がしたように、自分の先入観だけで発言をしないということであり、これはルール以前のマナーであるはずだ。前掲意見の最後の部分、〈これはどういうわけで入ったんでしょうかね〉に至っては、それまでの審議の積み重ねを足蹴にするものとも考えられ、委員としての資格まで疑わせる。

この発言に対しては、直後に林副主査がたしなめるように「諜」を入れた理由を述べている。だからおそらく何か違った理由で削除されたのだろう。しかし万が一、こうした根拠不明な意見に字種が左右されていたとするなら、それは改定常用漢字表全体の信頼性をも傷つけるものだということを指摘したい。また、この字が同委員の意見以外の理由で削除された場合は、それをぜひご説明願いたい。そうした説明がないと、前掲の意見が通った可能性が残ることになるからだ。


読み書き能力調査について

『国語分科会で今後取り組むべき課題について(抜粋)』(2005年)には、「「情報化時代に対応する漢字政策の在り方」を検討するに当たっての態度・方針」として、以下のようなことを書いている。

(2)実態調査については,漢字の頻度数調査だけでなく,読み書き能力調査,固有名詞(特に,人名・地名)の調査も実施する必要がある。(p.7)

この文書にもとづいて漢字小委員会が立ち上げられ、改定常用漢字表の審議がおこなわれることになったのだが、結局、ここにある読み書き能力調査はおこなわれないまま、最終答申は近づきつつある。これを私は非常に残念に思っている。

調査の必要性については、漢字小委員会で何度も言及はされたものの、実を結んではいない(第12、18、23、24回)。最近では、第1次試案の発表後に開催された国語施策懇談会(2009年3月26日)で、氏原主任国語調査官が「追加191字種について読み書き調査をなるべくやりたい」という趣旨の発言をしている。

改定常用漢字表では、字種選定の根拠として複数の使用頻度調査をおこなったことを誇らしく書いている(p.(8)-(9))。しかし、これらはすべて書籍、雑誌、新聞、ウェブサイト等の印刷文字を対象としたものだ。実際に人々が読み書きできる範囲についての調査は、必要性は認識されていたものの、結局おこなわれなかった。これは記憶されておくべきことだと思う。

すくなくとも文化庁は公的な場で多くの人々を前にして「やりたい」と明言したのだから、なぜ調査ができなかったについて一言あってよいと思うが、いかがだろうか。

「手書き自体が大切な文化である」の妥当性について

改定常用漢字表では「(4) 漢字を手書きすることの重要性」という一章を割いて、手書きの位置づけを試みている。このこと自体はよいことだと考える。また、この章前半の、漢字の習得及び運用面と手書きの関係についても、記述は一貫しており、実証する根拠が示されていない点は残念だが、まずは妥当なものと考える。ただし、後半の「手書き自体が大切な文化である」ことを論証する部分に疑問を感じる。

私自身は、手書きは大切な文化と考えている。だから、以下は内容の妥当性を問うものではなく、記述の妥当性をめぐる疑問とお考えいただきたい。これについて、試案は以下のように書いている。

後者の,手書き自体が大切な文化であるということに関連する調査として,同じ平成14年度実施の文化庁国語に関する世論調査」の中で,「あなたは,漢字についてどのような意識を持っていますか。」ということを尋ねている。この結果は,「日本語の表記に欠くことのできない大切な文字である。」を選んだ人が71.0%で最も多く,逆に,最も少なかったのは「ワープロなどがあるので,これからは漢字を書く必要は少なくなる。」の3.4%であった。漢字を書く必要性は今後もなくならないと考えている人が多数を占めていることは注目に値する。パソコンや携帯電話などの情報機器の使用が日常化し,一般化する中で,手書きの重要性が再認識されつつあるが,一方で,手書きでは相手(=読み手)に申し訳ないといった価値観も同時に生じていることに目を向ける必要がある。(p.(5))

「あなたは,漢字についてどのような意識を持っていますか」という問いに対して、用意された答えのうち「日本語の表記に欠くことのできない大切な文字である」を選択した人は、果たして手書きということを念頭において選択したのであろうか? コンピュータのディスプレイに表示される文字もまた、「日本語の表記に欠くことのできない大切な文字」であるはずで、この答え自体と手書きの関係は、とくにないと考えるべきだ。

「手書きでは相手(=読み手)に申し訳ないといった価値観も同時に生じている」ことも傍証として挙げられているが、残念ながら具体的根拠は示されていない。となると、この部分は「ワープロなどがあるので,これからは漢字を書く必要は少なくなる。」の3.4%だけを根拠として「手書き自体が大切な文化である」と結論づけていることになり、いささか根拠薄弱、牽強付会と感じる。

この部分は、情報化時代にあって、手書きをどう位置付けるかという重要な部分だ。もう少し慎重にデータを収集し論証すべきと思うが、いかがだろうか。