杉本幸治 本明朝を語る

中央で立っているのが杉本さん


リョービの看板である明朝体本明朝をデザインされた杉本幸治さんが、今までのご自分の仕事を話すのだという。週末は忙しいだよなあ、でもこの手のセミナーは一期一会、行かないと後悔するに決まってる。というわけで行って参りました、「杉本幸治本 明朝を語る」


この日配られた資料によると、杉本さんは1927年、下谷の生まれといいます。なるほど、お話の最中「菱」の字を指さして「しし」と発音されていたけど、江戸っ子ってわけですね。原弘も出た東京都立工芸学校(旧府立工芸)のご卒業というから、この世界ではエリートということでしょうか。これは大事な点だと思います。

杉本さんより上の世代の原字設計者(主に手彫り活字の世代)は、たぶん好きも嫌いもなく、食べるために字を彫っていた世代の人達ですね。ここでの技術の継承は徒弟制度によります。ところが昭和も2桁になり教育制度が確立してくると、だんだん食べるためじゃなく好きでこの世界に入る人達が主力になってくる。現代のタイプフェイス・デザイナーも好きでやっているのは同じですが、杉本さんはその始めの方の世代、つまり分水嶺と言うことになるのではないでしょうか。

脇道にそれましたが、杉本さんと言えば晃文堂(かつての欧文活字の名門)の明朝体をデザインし、晃文堂がリョービとなった後も、晃文堂明朝を改刻した本明朝のファミリー化や改良をずっと手がけてきたことで知られる方。晃文堂明朝はベントン活字(鏡像を刻む手彫りではなく、正像を書いてそれを母型におこす方式)、本明朝は写植で、その後デジタル化されたから、あわせて3世代もの間、第一線で活躍してこられたことになります。

元々は三省堂に入社されたのだけど、当時は職人気質というのか、自分が書いた原字に対して誰も良いとも悪いとも言ってくれずに、それが不満で仕方なかったそうです。職人は口で細かいことをどうこう言いませんからね。

ところが面白かったのが、本明朝の微妙な曲線を雲形定規で書くという説明をした際、司会の片塩二朗さん(朗文堂)は執拗に「どうしてそういうカーブにしたのか、どうやってそれを書くのか」を聞き出そうとするのだけれど、杉本さんはうまく説明できない。頭で書いている訳じゃないんですね。最適のカーブは指先だけが知っている。つまり紛れもなく杉本さんだって職人だという訳。

これは「説明できなかった」と簡単に片付けてしまうのではなく、むしろ「なにが説明できなかったのか」ということを聴衆の前ではっきりさせたことに意味があると思います。このあたりをうまく引き出した、インタビュアーとしての片塩さんの腕前はたいしたものだと思いました。

それから、杉本さんのお人柄がよく出ていると思ったのは、スクリーンに映し出された原字を見て、これは横線が細い、角ウロコが小さいなど、すぐに批評が口をついて出るところ。見ていると気になって、黙っていられないんでしょう。しかしそれも没になった原字について言ってた分にはよかったけれど、製品版であるデジタルフォントの本明朝にも、同じようなツッコミを入れちゃうのには笑いました。「この下のところが細いの、これはどうしてなんですか!」なんて。杉本さん、デジタル版だって見てない筈はないと思うんですが……。

また、会場からの質問に答えた際、これは狩野さんの質問だったけど、配布資料で原字が並んでいるところで、「喜」と「嘉」で部分字体(ソ+一)が共通するけど、書き方が違う、これは意図的なものなのか? というのに答えて曰く。これは字体ではない。字体は統一すべきだが、細かい部分まで統一する必要はない。時々気にして指摘される方がいるが、自分は細かいところまで統一する必要はなく、字画のつまり具合とか文字全体のバランスの中で変えた方がよいと思っている、とのこと。

そうか部分的な字形の不統一まで気にする人って本当にいるんですね。もちろん質問者の狩野さんは違います。彼は不統一に気がついたけど、それがおかしいと言った訳じゃない。そうじゃなく杉本さんの回答に出てきた「気にする人」です。

フォントデザインとは畑違いの話ですが、最近用字用語の不統一を病的に気にする編集者が激増していることと、なにか同じ根っこを感じますね。ぼくは統一病患者と呼んでますが。そりゃ名詞は統一した方が良いですよ(cf:HDD/ハードディスク)、でもその他は文脈で変えて良いんです。「見る」と「みる」の両方あっていいに決まってるじゃないか! たちが悪いのは、こういう指摘をすることが編集者の仕事だと思っている連中。そんなのコンピューターだってできるっつーの。……失礼しました、つい日頃の鬱憤が。

ともあれ、文字が好きで好きでという杉本さんに、会場中が魅了された3時間だったと言ってよいでしょう。終わりが近づくにつれ咳が多くなってきて、隣席の片塩さんも心配そうにコップに水を注いでましたが、どうかお元気で、これからもっともっと発言していただきたいと思いました。

最後に、会場で配布された原字の複写に、杉本さんがサインを入れてくださるというサービスもありました。じつはこの日、ちょっと前に古本屋で買ったばかりの晃文堂の見本帳を持参していたんですが、ちゃっかりこれにサインをいただくことに成功! 重い思いをして持ってきてよかったと思ったのでありました。