何種類もある「旧字体」(2)

さて、「戦前の人たちはどのような字体で書いていたのか」ということについて考えているわけですが、なかなか「戦前の人たち」のところまで行かず、それ以前のところで立ち止まっています。前回は江守賢治さんの著作に従って、その説をご紹介しました。そこで問題なのは、我々は江守説をどこまで信じてよいのかということです。



もちろん江守説を否定したいのではありません。むしろ逆で、江守説をより深く理解するには、さまざまな角度からの検証が必要だということです。なんだか当然のことを言ってますが。

江守さんは、歴史的なある現象を観察し、その観察に基づき所説を立てられた。ならば、同じような現象を観察している人を探し、その人がどのような主張をしているかを調べればよいわけです。その上で両者が同じことを言っているなら、それは鉄板、すなわち十分に信じてよいということになるでしょう。

漢字字体の歴史について、江守賢治さんの他にオーソリティーを探すとなれば、衆目の一致するところ、漢字字体規範データベース編纂委員会の委員長である石塚晴通さんであると考えられます。以下、このデータベースについて述べた『漢字字体規範データベース』(『日本語の研究』石塚晴通・豊島正之・池田証寿・白井純・高田智和・山口慶太、日本語学会、第1巻4号、2005年10月1日)を引用します。

本稿の第一著者石塚は、二十数年間に亘り、67文献約40万用例から成る「石塚漢字字体資料」を作成して来た。目的は、各時代・各地域(国)に漢字字体の標準が存在すること、そしてその標準は各時代・各地域(国)により変遷すること、を明らかにすることである。各時代・各地域の漢籍・仏典・国書の典籍として標準的な文献(楷書体)を選定し、その全用例の字体を整理し、データベース化することを内容としている。
(中略)これらの作業を通して、目的を略々果し得る資料が作成し得たかと判断されるので、学界共有の資料とすべく北海道大学言語情報学講座有志の共同作業として、これら資料のデータベース化・オンライン化に取り懸っている。
(同書、p.94)

要するに漢字字体規範データベースの元になった紙カードを作成された方であるわけです。しかもその数が67文献40万用例というのだからただ事ではない。オーソリティーという意味では、これ以上の方は国外を探してもそうはいないと思われます。では石塚さんは、字体の歴史についてどのようなことを言っているのでしょう。

 シナに於て強力な統一王朝が成立した初唐期に、字體の異る字即ち異體字といふものが強く意識されるやうになり、その整理の為「正俗通訛」といふ基準が見られ、字様といふ分野の専門書専門書もできて来た。顔師古に依ると伝へられる『顔氏字様』より、その子孫である顔元孫の『干禄字書』へと連つて行つた。但し、ここで誤解してならないことは『干禄字書』の「正通俗」といふ基準は、あくまで顔真卿が書写して伝へた大歴九年(774)頃のものであり(此ノ書ノ成立ハ710〜720頃ト云ハレルガ、現行本文ハ其ノ頃ノ基準デハナイ)、これに俗字や通字となつてゐても其の一昔前の初唐期には標準字體であつたものが多く、又後世も此の基準は若干動いてゐる。結局、各年代の標準的文献を取り上げ、全用例を検討して統計的に把握することにより、各年代の標準字體や、年代が同じでも個人個人の標準に若干の違ひが有るといふことが分つてきた。このやうな作業を通して見ると、初唐の標準字體と開成石経の基準とは大きく異り、又開成石経の規範性は顕著であり、字體の基準を定めて厳格に守り異體字の生じる率は一万字に精々二・三字程度である。この基準が南宋(特ニ南宋版、漢籍・佛典共)に於ける実践を通して普及、定着した。尚、『干禄字書』と開成石経との基準は全く同じといふわけではなく(年代モ50〜60年離レテヰル)、相異る場合南宋版は概して開成石経の字體となつてゐる。
 一方、日本では、七世紀に天皇を中心とする中央集権国家を形成して行く中で、シナの文物を大量に取り入れた。字體に関して言へば、おほむね初唐の標準字體が日本的標準となり、以後長く定着した。これは、シナ隋唐の標準音が呉音・漢音として日本に定着し、以後シナの標準音が変化しても基本的には変らなかつたことと似てゐる。大概これが変化したのは、江戸時代以降の印刷文化、なかんづく『康熙字典』以後である。
石塚晴通「漢字字體の日本的標準」(『国語と国文学』905号、1999年、至文堂、pp.88-89)


上で述べられていることを整理してみましょう。

  • 唐以前から存在し、その成立により標準字体となったものが「初唐の標準字體」である。
  • 一方、唐の成立とともにできた顔氏字様―干禄字書―開成石経の流れの標準字体が「開成石経の基準」である。
  • 開成石経の規範性は顕著である。逆に言えば初唐の標準字體は規範性が薄い(異体字が多い)。
  • 両者は大きく異なり、また『干禄字書』のなかで俗字・通字となっているものも、多くは初唐標準字体である。
  • 開成石経の標準字体が、南宋版・漢籍・仏典の標準となって普及、定着した。
  • 日本では七世紀に初唐の標準字體が移入されて、以後長く日本の標準となった
  • 江戸時代以降に印刷文化が普及、『康熙字典』が登場すると、この字体(つまり開成石経の標準)に変化した。


ここで漢字字体規範データベースを使い、実例に則して石塚説を説明してみましょう。


この「高」の例について、先の論文『漢字字体規範データベース』は、以下のように述べます。

出現する13文献のすべての用例がいわゆる「はしご高」であり、「くち高」は一例もない*1。諸橋『大漢和辞典』などでは、「はしご高」を「くち高」の「俗字」としているが、初唐宮廷写経から慶長勅版に至るまで「はしご高」が一貫して標準字体であったことが分かる。「俗字」や「正字」は時代と地域が限定できなければ把握できない概念である。
(同書、p.100)

念のために補足すると、「はしご高」が初唐の標準字体で、「くち高」が康煕字典の字体です。ちなみに現在でも常用漢字表にある「高」は「はしご高」ではありませんし、多くの日本語フォントも日本の工業標準であるJIS X 0208JIS X 0213のレパートリとして「はしご高」をサポートしていません。ここで詳細は述べませんが「はしご高」を出すフォントは、これを「台湾の文字」という扱いでサポートしています。つまり現代でも「江戸時代以降の印刷文化」は生きていると言えるわけです。


では江守説に戻りましょう。江守さんご自身による説明図を以下に引用します。(『解説 字体辞典三省堂、1998年、p.24)

先の石塚説に上図を当てはめてみましょう。「Aの系統」に「初唐の三大家」とあることから、これを「初唐の標準字體」に比定できるのではないかと考えられます(ただし石塚説は初唐以前については何も言ってません)。一方で、「Bの系統」に「干禄字書」と「康熙字典」が配置されていることから、これを「開成石経の基準」に比定することができるでしょう(ここでも石塚説は篆書については何も言っていないことに留意すべきでしょう)。

江守説の左端「版刻文字」は石塚説とはまったく違いますし、宋版の位置も多少違いますが、少なくとも江守説と石塚説には重なっている部分があることを確認できます。では両者が重なっている部分をまとめてみましょう。

  • 「初唐の標準的楷書」と「干禄字書―開成石経―康熙字典の系統」を対置すること
  • これを言いかえれば、康熙字典などの明朝体は初唐標準の楷書体と大きく異なるものであること
  • 初唐標準の楷書体には、多くの異体字がふくまれること(江守説で言うところの「書写体」)
  • 漢和辞典等で初唐標準字体が「俗字」とされることが多いこと


どうやら、上記の部分はかなり「固い」と見てよさそうです。さて、ここまでを踏まえて、いよいよ「戦前の人たちはどのような字体で書いていたのか」という問いに踏み入ってみましょう。

*1:この論文発表後、データベースは用例が大幅に追加され、現在では「くち高」が一例だけ出現しますが、論旨に影響はないでしょう。