「解釈による運用」から「漢字表による運用」へ

先日のワークショップの発表ですが、発表者にとってありがたかったのは「規範」というテーマを与えられたことでした。発表以前から機会があればまとめたいと思っていたテーマを、もう一度規範という概括的な視点から見直すことになったからです。その結果、大日本印刷朝日新聞での略字体使用を、国語施策からどのように位置付けられるのかを考えさせられることになりました。



両者が略字体を使用しはじめた頃の国語施策は当用漢字表/当用漢字字体表です。これがもたらした影響については、さっそく當山日出夫さんがまとめてくださっています。

要は、漢字使用を1,850字の範囲に制限した当用漢字表、及びその字体をさだめた当用漢字字体表の目的は、国民の負担を軽減するところにあった。これは紛れもなく「理念」です。しかし残念ながら大きな「穴」があった。固有名詞については「別に考えることにした」としたことにより、その使用基準が示されないままになってしまったのです。

一方で新聞社も印刷会社も、日々校了をしなくてはいけない。その中では地名や人名を扱う以上、表外字だって使わざるを得ない。そこで当用漢字字体表で示された略字体の構成部品(偏旁)を、表外字に当てはめた略字体を使用することがおこなわれた。*1

じつは、ここまでは多くの先行研究が教えていることなのです。もしもぼくの発表に多少の新味があったとするなら、そうした現象を「解釈による国語施策の運用」とよび、さらにそれを後の時代の「漢字表による国語施策の運用」と対比させたことではないかと思っています。

現代から見ると朝日新聞での略字体使用は、なにか特定の主義主張にもとづくものであったかのように受け取られがちですが、それは違うと思います。すくなくとも大日本印刷は国語施策に示された理念に則ろうとしただけでした。それが如実に分かるのが、『1968年和文課長指示』の文言であり、ここでは19の拡張新字体の使用を取り止めて、いわゆる康煕字典体を使用するよう指示し、その理由を以下のように書きます。

  • 理由 当用漢字字体制定以来19年を経過し、その間の社会情勢の変化により“当用漢字字体整理の趣旨に基づく"という所期の目的が却って大方の得意先の批判を招いている為。

なにか歯がみしているような文言で、つまり「国の政策にもとづいていたのに、それが顧客から批判された」ということです。ではなぜ批判を招いたのかといえば、まさにそれは「解釈による運用」だったからです。解釈は主観によらざるを得ず、何らかの権威に裏打ちされない限りは解釈の正当性を主張しつづけられない。

一部の表外字に略字体の使用を認めた1951年の人名用漢字別表、1954年の当用漢字表補正資料は、そうした解釈の裏付けとなるはずのものでした。しかし残念ながら「大方の得意先」にとってそれでも納得のできるものではなかったようです。

そこで大日本印刷は新たな基準を求めざるを得なかった。それが1970年前後からはじまる「略字体使用は国語施策の範囲に止め、それ以外はいわゆる康煕字典体に統一する」という「漢字表による国語施策の運用」です。これなら客観的で文句も出ないだろうということ。

ただし、この運用法も問題を残します。それこそがディスカッションで豊島正之さんが指摘された、今につづく「規範(漢字表)の金科玉条化」です。同じくディスカッションで安岡孝一さんが「人名用漢字が規範になったのはいつからだ」と問題を提起してくださいましたが、これも素晴らしい示唆です。「漢字表による国語施策の運用」をしていても、当用漢字表常用漢字表では文字が足りない以上は、それらを補う漢字表として人名用漢字に目が行くのは自然の流れですし、運用の対象になる漢字表がやがて聖典視されていくのも自然の流れです。

では、なぜ朝日新聞がつい最近まで略字体の使用を止められなかったのか。これについては詳細な調査を待つしかありませんが、多くの顧客を相手として多くの商品を生産する大日本印刷に対して、朝日新聞社では全社を挙げてたった一つの新聞という商品を生産するという「ビジネスモデルの違い」に答えを求めるのが妥当であるように思えます。

以上、走り書きで意の足らぬところはどうかご容赦を。

*1:これは、ただちに「新たな字体を創作した」ということにはなりません。なぜなら略字体の規定は戦前の国語施策に遡るものですし、そこでは一般に手書きで使用されていた字体をなるべく採用していたからです。ただし、頻度の低い表外字の中には、新たに創作した字体もあったことと思います。