「束縛」という視点について (2)

ぼくは以前から表外漢字字体表や2004JISについて批判的な文章を書いてきました。しかしながら、昨年来のWindows VistaLeopardにおける2004JISの実装により、かつて83JISにより始まった表外漢字の混乱状況は、表外漢字字体表や2004JISが採用した字体、つまり「いわゆる康煕字典体」に収束することがはっきりし始めたといって良いでしょう*1。そうした結果は別にして、ぼくが思うことは自分の書いた原稿は果たして当を得たものだったかということです。

前回ぼくは「束縛」という視点について〈この視点により、もしかしたら今までよりもずっと遠くに行けるのではないかと考えています〉と書きました。では、今までは文字がどのような視点で論じられてきたかというと、それは「社会的な混乱の有無」でしょう。

まず国語施策そのものがこれに立脚しています。たとえば国語審議会答申『表外漢字字体表』は以下のように述べています。

(社会においては常用漢字及び人名漢字は略字体が、表外字はいわゆる康煕字典体が広く使われていることを述べた上で)このような文字使用の実態の中で、表外漢字に常用漢字に準じた略体化を及ぼすという方針を国語審議会が採った場合、結果として、新たな略字体を増やすことになり、印刷文字の使用に大きな混乱を生じさせることになる。国語審議会は、上述の表外漢字字体の使用実態を踏まえ、この実態を混乱させないことを最優先に考えた。
((2) 表外漢字字体表作成に当たっての基本的な考え方 / p.4)

このように表外漢字字体表は「社会的な混乱のないこと」を最優先に作成されているのですが、これは表外漢字字体表だけに限りません。常用漢字表からして同様です。その答申前文の「常用漢字表作成の経緯」に〈当用漢字表等の内容に急激な変化を与えて混乱を来すことのないよう留意しながら〉とあります(p.2)。つまり「社会的な混乱のないこと」は、常用漢字表以来の国語施策の基本方針だと考えてよいでしょう。同じことは表外漢字字体表に対応しようとした2004JISにも言えます。

1.3.1 改正の考え方
今回の改正は、表外漢字字体表が国語審議会から答申されたことに伴い、そこに示された康熙字典体における正字を典拠として作られてきた明治以来の活字字体(いわゆる康煕字典体)を印刷標準字体とするという国語施策の方針と情報交換用符号化文字集合にかかわる工業標準との間の整合性を図り、矛盾や誤解を引き起こさないことを最大の目的とし、その上で、工業標準の変更に伴う混乱を最小限度に止めることに留意した。(JIS X 0213:2004 解説 p.35)


上記の〈工業標準の変更に伴う混乱〉とは、社会一般を念頭においた言葉と読むべきでしょう。

つまり施政者にとって文字とは「荒ぶる神」であり、これに対するときはひたすら混乱のないよう鎮めることが第一だったと言えます。とはいえ、本来こうした施策や標準が社会的な混乱がないことを優先されるのが悪いはずはありません。しかし行政の側が社会的混乱に立脚している以上、それに反対しようとする側が、いかにそれが無効であり、かえって社会的な混乱が起こることを立証しようとするのも、ある意味で当然の結果でしょう。たとえばかつての日本文芸家協会の「漢字を救え!」キャンペーンでも同じように「混乱」が問題にされていたことを思い出します。吉目木晴彦が『三田文学』1997年冬季号に発表した論文のタイトルは「日本語が消滅する日」でした。

あわてて言えば、このぼくだって同類です。原稿を書く自分が、そしてそれを読む読者だって社会の一員である以上、そこに混乱が起こるのかどうかは大事な視点であるはずだ、ぼくはそう思っていました。それでも、「社会」なるものを前面に押し立てて論をすすめたことが、本当に自分の書きたいことだったのか、それで「遠く」へ行けたのか、今から振り返れば内心忸怩たるものがあるのです。

「社会」っていったい何でしょう? それはどこからどこまでのもので、だれが属していて、どこにあるのでしょう? 我々の住む「社会」は、そんな簡単に一括りできるものなのでしょうか。

こんなことを考えているときでした、師茂樹さんが「束縛」という言葉でガツン!と一発食らわしてくれたのは。


ははは、やっぱり終わらなかった。もう一回つづきま〜す。


※おことわり
朝目が覚めて再読したら、展開に甘いところがありましたので、後半部分を書き直しました。

*1:誤解されるかもしれませが、ぼくは別段いわゆる康煕字典体そのものに反対したつもりはなかったのですが、そうしたことはこれらが普及していく状況の中ではあまり言うべきことではないでしょう。