「束縛」という視点について (3)

前回は文字について国の標準や政策を批判しようとする際、たいていは「社会的な混乱」という視点で語られてきたというところまででした。そして、ぼく自身がそうした視点で原稿を書いていたと。自分でもいいのかなと思ったんですが、この「社会的な混乱」を云々すると、とたんに書くものが大上段、上から目線になっちゃうんです。あたかも「社会」なるものを自分一人が背負っているみたいな。

これをもう少し腑分けすると、ここで語られている「社会」とは、筆者自身が含まれているのは当然として、施政者、そして国民全体をふくんだニュアンスがありませんか。つまりこの「社会的な混乱」での「社会」とは「わが国=日本」に他ならないのですね。

一方で「束縛」と言ったとたんに、その対象はうんと明確で、しかも客観的な視線になります。少なくとも「国家」なんて大袈裟であやふやで虚言じみた話にはなりません。どうしてなんでしょう?



ぼくたちは、誰しも大事なもの、体に馴染んだもの、愛しいものを持ってます。それは誰にも壊されたくないし、なるべく長く持っていたい。そこで提案なのですが、一度これを「束縛」と捉え直してみてはどうでしょう? この言葉の類語が拘束/抑制/制限などであることからも分かるとおり、束縛自体はあまり良い言葉ではありません。しかし、あえて突き放した視線で見直してみると、逆にすごく冷静に、大事なものの輪郭がくっきりするはずです。そして(ここが大切なのですが)、そのようにすることは、決して愛するものを貶めることにはならないはずです。

かつて昭和20〜30年代に巻き起こされた国字国語論争、あるいは10年前の「漢字を救え!」キャンペーンもそうだと思いますが、文字をめぐる言論は、いつだって熱狂的、といって悪ければ主観的でした。かく言うぼくにも覚えがあるんですが、文字のことになると、ついつい我を忘れて激しく反論し始めたりする。ぼくたちはどうして文字のことになると、こうも熱くなってしまうのでしょう。そして、例の「社会的な混乱」という言葉は、こういう「熱さ」の延長線上にある言葉ですね。なんたって天下国家を語っている訳ですから。

この「束縛」という言葉の偉いところは、「社会的な混乱」ですませていた頃は「社会」という言葉に包摂されて曖昧になっていた対象が、まるでリトマス試験紙のようにくっきり浮き彫りにできることです。

たとえば2004JISを例にとれば、これの一番の論点は例示字体の変更でした。従来だと「同じ符号位置の例示字体を変更すれば、社会的な混乱が発生する」という言い方になりましょうか。な〜んか偉そうな割りには漠然としてますよね。「社会的」たって、どこに混乱があるんだよってな感じ。

でもここで「束縛」という視点で見直してみると、その例示字体変更により、どんな束縛をうけている人たちが影響を受けるのかという疑問が浮上します。これについて以前からよく指摘されてきたのが人名、そして地名の分野でしょう。これも従来からの書き方だと「同じ符号位置の例示字体を変更すれば、人名や地名の表記に混乱を生じさせる」というものになっていたと思います。やっぱり曖昧ですね。しかし、「束縛」という視点からは「人名や地名に束縛されている人々に混乱を生じさせる」となります。いや、ちょっと書き急ぎすぎましたか。ぼくがいかにボンクラライターでも、まさかこんな人を人と思わない書き方はしません、でも物の見方としてはスッキリしませんか。

文部省がおこなった『漢字使用頻度数調査』によれば、延べ漢字数の約96%が常用漢字表にある字で占められると言います。表外漢字は残り約4%にすぎず、2004JISで例示字体が変更された字は、そのさらに一部であり、使用頻度は常用漢字よりもかなり下です。したがって例示字体変更に起因する混乱は、瞬く間に「社会」全体に及ぶほどのものではないと考えた方が良い。更にいえば、たとえば辻さん、葛西さん、楢林さん、そうした例示字体変更の姓を持つ人全体が即座に混乱する訳でもないでしょう。しんにょうの点が2つに増えてからといって、ただちに「辻」の姓を持つ全員が気づく訳ではない。そうした人のうち、まず自分の字形にこだわりのある人だけが気づき、違和感を訴える、そうではないでしょうか? そのこだわりが「束縛」です。

ここで肝心なことは、ごく一部だからといって、この混乱を軽視できないということです。なぜかと言えば、それが「束縛」だからです。束縛を受けている人々は、かなり強い反発を示すでしょう。そしてここで「束縛」の新たな側面が明らかになります。「束縛」は感染する。自分の姓の字形が、自分のパソコンで表現できないと知った一部の人々が、もしもこの不条理を広範に訴えようとウェブなどで感情的な文章を書いてゆけば――。そしてそれを見た、今までは気づかなかった(つまり束縛を受けていなかった)辻さん、葛西さんが、ふと気づいて自分のWindows Vistaパソコンの文字を見直し、そこに子供の頃から馴染んだ字形とは違う物を発見すれば――。こうして「束縛」は感染していく、そうした可能性があります。

以上のような推測そのものは、従来からされてきたことで、なにも新しいものではありません。しかし「束縛」という視点によって、より明確に、具体的にその詳細が理解できるように思います。前の方で〈ぼくはこの視点により、もしかしたら今までよりもずっと遠くに行けるのではないかと考えています〉と書いたのは、そのような理由からでした。ああ、もっと早く気づいていれば……。