「束縛」という視点について (1)

3月22日に京都で開かれる『キャラクター・身体・コミュニティ――第2回人文情報学シンポジウム』で話をさせてもらいます。題して、「「正字」における束縛の諸相」。


ぼくの場合、なんで文字や文字コードのことばかり調べたり書いたりしているのかといえば、「遠くまで行けるから」*1です。原稿を書き終わったとき、それを始めたときにいた地点から、自分がずいぶん遠くに降り立ったことに気づくことがあります。脳内冒険とでもいうのでしょうか、それはぼくにとって大層気持ちのよいことなのです。それでも最近はもう一つ気持ちよくない。



Unicode実装の普及による多文字処理の実現、あるいは漢字字体規範データベースCHISE IDS 漢字検索等、ちょっと前は夢でしかなかったような上質な文字データベースに簡単にアクセスできるようになったにもかかわらず、文字にかかわるコンピュータの世界に行き詰まりを感じているのは、ぼくだけでしょうか。自分の書いたり考えてきたことが、どうもうまく言い当てていない、届いていない、伝わったとしても狭いタコツボの中だけ……、そんな閉塞感とでも言いましょうか。いえ、時間とともに研究というか取材そのものはすすんでいるのです。しかしそれを伝える言葉に限界を感じる。これはもしや、枠組みから再検討した方がいいのではないか、そんなことを考えていました。

おそらくこのシンポジウムの意図も、そんな閉塞感から出発しているのではないかと、まあ勝手にですけど思っています。主催者自ら、「文字処理研究を進めていたらマンガのキャラクター論にたどりついた」というような人なのですから。そこで「束縛」という視点についてです。ぼくはこの視点により、もしかしたら今までよりもずっと遠くに行けるのではないかと考えています。それには、まずこのシンポジウムの意図をご説明した方がよいでしょう。

主催者たちは、文字としてのキャラクターとマンガ/アニメのキャラクターには基本的な部分で多くの共通点があることを指摘した上で、両者を統合する『一般化キャラクター』という概念を提唱しています。

たとえば文字コード規格とは、文字と符号のユニークなビット組合せを定義したものですが、文字の数は無限といっていいほどなのに符号は有限であるゆえに、細かな文字の形の違いを区別せず、包摂して1つの符号に割り当てています。こうして文字コード規格における文字(キャラクター)とは、「これ」と差し示すことができない不可視で抽象的な存在ということになります*2。この抽象的な文字は、文字コード規格を実装したフォントによって具象化・可視化されますが、そこで実現された文字の形(字形)は、あくまでそのフォントなりの「解釈」の一つに過ぎないことになります。実際に同じ明朝体でもフォントによって細かな形の違いがあることに、私たちはしばしば気づかされます。これを「デザインの違い」といいます。

このようにコンピュータにおける文字は、「抽象化⇔具象化」を往還するモデルとして理解することができる訳ですが、こうしたモデルは何も文字コード規格に限られるものではありません。たとえば常用漢字表(これも規格の一種)に規定されている「字体」も抽象的なものです。つまり「抽象化⇔具象化」というモデルをもつことは、文字においてはごく一般的な性質だと考えられる訳です。

このモデルが、マンガやアニメの「キャラクター」にも共通していると喝破したのが、「一般化キャラクター」です。主催者の一人である守岡さんは以下のように書きます。

一方、マンガやアニメ等のキャラクターにおける手書き文字に相当するものとして、コスプレ(costume play)というものが考えられる。(中略)

手書き文字は文字を素早く書くという目的から、しばしば、簡略化が行われる。また、完全に同じ字形を再現することは困難であり、同一文書の中でも同じ文字が異なった字形で書かれてしまう。そして、字形は筆記者に応じても形を変える。

コスプレの場合、衣裳を人が身にまとうという物理的・身体的な制約から、マンガやアニメの中の姿と同じ姿を再現することは非常に困難であったり不可能であったりする。(中略)また、原作における色を解釈し、布地を選んで解釈した理念上の色を表現するという過程も存在する。こうした結果、コスプレによって表現されたキャラクターはコスプレイヤー(costume player)によって異なるものとなる。(中略)

このように、手書き文字やコスプレは物理的・身体的な制約の中でキャラクターを表現する行為であり、それ故に、必然的に、視覚的表現の変容(揺れ)を受けてしまう。しかしながら、そうした揺れをうけても、そのキャラクターを知っている人は、そのキャラクターを読むことができるのである。
――守岡知彦「キャラクターを考える」(『人文情報学シンポジウム―キャラクター・データベース・共同行為―報告書』 p.62 京都大学人文科学研究所 2007年12月)


ここで興味深いのは、どちらのキャラクターもしばしば「正しさ」が要求されるということです。たとえば文字においては戦後、国論を二分した当用漢字の略字体と伝統的な康煕字典体(「正字」)の対立がただちに思い出されますが、コスプレにも「完コス」があると守岡さんは指摘します。これは「演ずるキャラクターの姿をなるべく忠実に再現しようとする姿勢である。これは、単に衣装を着るだけではだめで、カラコン(カラーコンタクトレンズ)を入れたり、体型を補整したりして、外見的なそれっぽさを追求する」(同報告書 p.63)というものだそうですが、まさにこの「完コス」は文字における「正字」を想起させるものです。

そしてこの現象を、同じく主催者の一人である師茂樹さんは、「どうして(例えば文字論における「正字」の議論のように)強力な正統性を持って我々を束縛するのか」(同報告書 p.80)と問題提起しています。ぼくは師さんのこの部分を読んだとき、本当に雷に打たれたようなショックをうけました。そうか、あれは「束縛」だったんだ!! 

――ちょっと長くなっちゃいましたね。肝心の「束縛」についてまだ何も書いていませんが、あしたのこころだぁ〜〜(小沢昭一調で)。

*1:

カムイ伝 (1) (小学館文庫)

カムイ伝 (1) (小学館文庫)

*2:これを可視化しようとしたのがJIS X 0208:1997に始まる包摂規準。