第8回もじもじカフェ「写真植字の時代」


講師として登場するのは、今や伝説と化している杉浦康平氏による数々のデザインを支えた手動写植オペレーター、駒井靖夫さん。しかも丁寧なことに初日は駒井さんの仕事場で写植機を拝見した後、翌日会場をあらためてお話を聞くという構成。これは行かないと。




ぼくのように1980年代初頭から編集者になったオッサンにとって、手動写植を語ることは自分の青春時代を語ることに他ならない。大出版社ではない、吹けば飛ぶような小さい雑誌は、当時みんな手動機で版下製作をしていた。当時電算写植は大きな印刷会社で書籍を作るときに体験できただけで、写植といえばイコール手動機だった。個人的な体験では、雑誌の仕事でも電算写植になるのは1980年代後半からにすぎない。*1


だから、本文もタイトルもリードも、みーんな手動機で打っていたわけだけれど、その後本格的に出会うことになる電算写植との比較で言えば、これに真似できない手動機ならではの「技」というと、タイトルの詰組ということになるだろう。この日のセミナーでも1980年代当時の指定紙と、その通りに打ったサンプルを持参して回覧してくれたりした。眼福!


これは今のデジタルフォントでもそうだけれど、同じ書体であっても漢字と平仮名、片仮名、欧文で大きさは少しずつ違って作られている。おおむね左記のうちで右にいくほど字面が小さくなるのが普通のはず。これは長い本文で自然に読み流すための工夫なのだけど、タイトルのような短い文字列の場合はかえってこれが視覚に引っかかり不自然に見えてしまう。そこでこれらを同じ大きさに見えるように打つことになるが、この「見えるよう」というのがミソで、実際にはイコールではなく、少しだけ小さかったりする。ではどのくらいのサイズにするか? これがオペレーターの腕なのですね。


同様に文字と文字の間(字間)も長い文章で自然に読めるように若干の間隔が設定されており、この間隔を称して「ベタ」と言うのだけれど、タイトルをベタで組むと間延びして見られたものではない*2。ではどのくらい詰めるのか? これまたオペレーターの腕なのです。とくに問題は促音(ぁぃっ等々)。縦組の場合なら、右上におくか、中央におくか。二重促音の場合互いにどの程度まで詰められるか。つまり誤解をしないで欲しいのだが、手動機の詰組は手動機だから美しいのではなく、あくまでも主役はオペレーターの美的なセンスであり、それを実現する腕なのだ。


ただし、オペレーターがどう打つのか以前に、まず発注するデザイナーや編集者の「好み」に合わせなければならない。だからそうした人々とのコミュニケーションがとても大切になる。実際に何種類か指定紙を見せてもらったけど、そこに書かれているのは書体とQ数(文字の大きさ)、あとはせいぜい改行位置だけで、どこをどう詰める等の指示は一切なし(促音のQ数指定はあった)、行長指定もなし。おそらくこれは駒井さんが打った行長に合わせてデザインをしているはずで、つまりこの指定紙はオペレーターに対するデザイナーの絶大な信頼を前提にしていることになる。当然、こうした指定の仕方で落ち着く以前に、長いやりとりがあったのだろう。


とはいえ、実際にはこの指定紙のような信頼関係を築ける意識の高い顧客はごく一部で、大半は始めからなにも言わない、自分の原稿のどこにどんな問題があるのか知りもせず、誤植がなければ文句なしというのがほとんでなかったか。少なくとも自分はそうで、汗顔の至りとはこのこと。そうした場合は、レイアウトを見ながら(バラ打ちの場合はそれさえなしに)オペレーターは自分のセンスに従い、美しく読みやすいよう詰めていくわけです。


もちろん電算写植にこうした詰組ができなかった訳ではない。しかしこれが主流になった後も、本文は電算で速く正確に、しかしタイトル(中にはリードも)だけは手動機で美しくというワークフローがあったことが、両者の性格の違い、役割分担を物語っている。というよりも、駒井さんのような名人のツメを、電算はついにプログラムとして組み込めなかったと言うべきかもしれない。


どうも写植のこととなると熱くなってしまい、セミナーの内容紹介というより、とりとめのない懐旧談のようになってしまった。おわりにセミナーで聞いたうち、印象に残ったことを箇条書きで。

  • 1972年に独立して買った写植機がSK-3RYで、60〜65万。当時は国産車が変えた値段。後にPAVO-8が230万円。
  • 1970年代、注文は山のようにあった。残業100時間では仲間から少ないとバカにされ、150時間くらいはいかんとダメだと言われたりした。
  • 文字プレートは大きなメインプレートが当時7万円。頻度の低い文字を収めたサブプレートもあわせ15万くらい。80年代になってゴナのようにファミリーがどんどんふくれていくと、毎月買い増ししていくことになった。
  • 現在手動機は生産をやめてひさしい。PAVO-KYという機種を2台もっているが、これは予備のため。ところが一方のパーツをもう片方に取り付けようとしてもうまく入らない。つまり互換性がない。
  • これはぼくの推測だが、写植機を現在のトヨタの自動車のような均一の品質で大量生産した工業製品として考えるべきではないのかも。むしろロールスロイスだとか少し前のジャガーのような、不均一なパーツを有能な職人がうまく調整して組み込むような過渡的な工業製品として捉えるべきかも知れない。
  • 実際に駒井さんの手動機のメンテナンスを引き受けているのは、そうした元写研の職人のようだ。
  • 詰め打ちのこと。書体によって美しい詰め方は違う。明朝はやさしく。原稿の内容にもよるが、あまり詰めすぎない方がよい。反対にゴナのように仮想ボディいっぱいに作った書体は、しっかり詰めた方が緊張感が出てよい。ただしこれは読者の年齢層にもよる。年齢の高い人向けならゆったりした方が読みやすいし、若い人向けならばぎゅうぎゅうに詰めてもいいだろう。
  • (好きな書体はという質問に)SHM。欧文は従属は使わずガラモンドを組み合わせる。太さは原稿の内容に合わせて考える。
  • YSEMの欧文は天が大きい。
  • ゴナDBは欧文に長体1をかける。
  • SK-3RYから横組が可能になった。ただ、欧文の字間はアルファベットの1文字ごとに字送りが異なるので、換算表をみながら打たねばならなかった。

ぼくが二十歳の時に初めて命じられた仕事は、写植屋に原稿を持っていくことだった。当時ファクシミリはそんなに普及しておらず、打ち上がった写植の印画紙を取りに行くことはもちろん、原稿を持っていくのも駆け出しの仕事だった。応対してくれた写植屋の親父さんはだれも気さくで、ぼくのような若造相手でも丁寧に写植のことを教えてくれた。今はこうして文字の原稿を書いたりしている僕だが、その原点はまさに手動写植にある。この日のセミナーは、かつてお世話になった親父さんに再会できたようで、自分がどんなところから来たのか改めて考えさせてくれる良い機会になった。主催者には深くお礼を申し上げたい。

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*1:ちなみに「フロッピー入稿」ってのが一般化しはじめたのも1980年代後半からだけど、これは電算写植が相手。筆者手ずからのテキストデータを元にするから手書き原稿と違い誤植があり得ない。今は当然のことだけど、当時これは本当に画期的なことでした。なのにどうしてか一部の文字が化ける。なぜだ!? というのがいわゆる「83JISの混乱」で、それはこの電算写植を舞台にしておきたものです。

*2:じつはこの「タイトルをベタで組むとみっともない」という今では普通の感性は、1960年代以降の有名デザイナーたちが「発見」したものであり、それ以前は全部がベタなのでした。というより活版では字間は詰められない。写植以前は活版の清刷をカッターで切り貼りしていたそうだが(もちろんこれはオフセット印刷での話)、写植が「新しい」理由は、ここにもあったのでした。こうした影響、というか反動からか、1970〜80年代当時のタイトル組を見ると、不自然なほど詰めすぎと思うことが多い。