Unicodeが役に立ったこと

5月3日のエントリUnicodeはなんの役に立つのか?は、このささやかなブログの中では最大のヒットになったようです。あちこちから思わぬトラックバックやコメントをいただいて、たいへん心強く思いました。

しかし、どなたも技術からしUnicodeを見ていないことに少しおどろきました。ぼくは、もしもUnicodeが役に立っているとしたら、それは経済――グローバリズムの進展を助けたことだろうと思っているからです。


The Unicode Standard, Version 4.0 の第1章に以下のような文章があります。

When the Unicode project began in 1988, the groups most affected by the lack of a consistent international character standard included publishers of scientific and mathematical software, newspaper and book publishers, bibliographic information services, and academic researchers.
More recently, the computer industry has adopted an increasingly global outlook, building international software that can be easily adapted to meet the needs of particular locations and cultures.
The explosive growth of the Internet has merely added to the demand for a character set standard that can be used all over the world.
(1.2 Design Goals, p. 3)

恥を承知で拙訳を載せると、以下のようになると思います(あちこち誤訳していると思うので適当に読み流してください。でも一応すすめてますので>某方面)

Unicodeのプロジェクトが1988年に始まった当時、一貫した国際文字規格が欠如していることによる影響を受けるグループは、科学・数学用のソフトウェアベンダー、新聞社や出版社、書誌情報サービス、それにアカデミックな研究者程度だった。

近年、コンピュータ産業はますます地球規模の視点を取り入れるようになっており、国際的なソフトウェアを構築する際にも、国や文化による要求に、簡単に合わせることができるようになった。

インターネットの爆発的な成長はまた、単に世界中で使うことができる文字集合の標準への要求を高めただけだった。

ああ、こりゃグローバリズムだよと思いました。文字コードのような「あって当たり前」の技術は、それがうまくいっているように見える限り、どうしたって「透明」なんです。もしそこに何かを見ようとしたら、思い切りカメラを引かないと見えないのではないかなあと思います。


たとえば5月17日のエントリで野村雅昭氏のことが話題になった際、安岡さんは技術史全体の流れを押さえないとモノは見えないと言われました。それは本当にその通りで、目の前の現象だけを追いかけても仕方ない。しかし同時に思うんです。技術史だけを見ても、やはり限界はあると。もともと技術と経済はコインの表裏(あるいはヒトとクルマ)ですし、さらに政治、そして文化の影響からも逃れられない。


いや、ちょっと大きく出すぎたかもしれない。別にここでUnicodeのせいで9.11が起きたなど短絡したことを言いたいのではありません。そもそも結論めいたことを言えるほど、まだ突き詰めたことを言うところまで至っていません。せいぜいが文字コード規格というものは宿命的に国際化を指向するものだけど、同様の意味から宿命的にグローバリズムにも荷担するのだろう――程度のことです。

もう一つ。スティグリッツが『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』で何回も強調していることですが、グローバリズムそれ自身には善も悪もない(むしろ善だと言ってますね)けれど、善や悪を極大化しやすい傾向を持つ――。これは文字コードという技術の持っている性格とよく似ているように思えます。