二つの顔を持つ神

幸いなことに先週末に掲載した絵文字が開いてしまった「パンドラの箱」第4回は好評をもって迎えられた様子。ブックマークしてくださった方々が、さきほど確認したら360人。これは第1回の693人には及ばないものの、第2回第3回を上回る数字であり、素直に喜んでいる。

また、ネット上でも拙文に触れてくださる方々が大勢いらっしゃり、折りにふれて楽しく拝見している。こういう場合、書いた本人を触発するという意味では、肯定するよりむしろ批判する文章の方に軍配が上がる(もちろん誉めてくれるのは無条件にうれしいのだけれど)。

「そうか、こういう考え方があったのか」「そういう受け取られ方をしたか」ということです。こうした直言は親しい人や編集者はなかなか言ってくれないことだから、なるべく素直に受け止めたいと思っている。誤解や曲解も含め、あらゆる反応は筆者にとって良い糧になりうる。鰯や秋刀魚のように骨まできれいに食べましょう。


で、そんな批判的な意見の一つが下記のもの。

この中に、次のような一節がある。

目的が既存の絵文字と互換な情報交換と相互運用性にあるなら、それに含まれる個々の絵文字の形や内容に関する議論は、はじめから、あまり意味がない。

詳細に関する議論は必要だが、標準化すべきか否かという点については、それが目的とする情報交換の有用性とニーズだけを議論すればよい。絵文字だから駄目だとか、国旗は駄目だとか、そういう議論はナンセンスだ。

ある面から見ると全くそのとおり。そして興味深いことに、上記とそっくり同じ考えをしたところがある。Unicodeコンソーシアムだ。提案者のGoogleAppleも当然同じ考え方だ。

絵文字提案は2月に開催された第118回UTC会議で検討、承認された。その議事録末尾にある「Symbols Subcommittee ― Emoji (D.2)」という節が絵文字に関する記録だが、ここでソースセパレーションが話された形跡は見出されない。

じつはUTCの議事録は普通の意味での議事の記録というより、むしろ決定事項を記録した決議(Resolution)に近いものだ。だから、元々どのようなやり取りがあったのか詳細を知ることはむずかしい。

それでもGoogleは例によって事細かに自分達のやるべき作業を記録し、公開してくれているので、その一端は知ることができる。

上記はその一例なのだけれど、要は規格上の用語など細かな問題点が指摘されただけで、UTC会議では「ソースセパレーションの必然性の有無」などという問題が正面切って取り上げられてはないように見える。

いや、この問題の性質上、それが討議されたとすればもっと以前の会議なのかもしれない。しかし残念ながら、Googleが絵文字を最初に提案した2007年8月の第112回の議事録は、現在に至るも非公開のままだ。そして113回から117回まで、議事録に絵文字の審議は見つけることはできない。

Unicodeコンソーシアムは会員制の組織であり、そこでの一番の収入源は会員の支払う会費であるはずだ。したがって、その組織は会員の利益を最大化するように行動する。原稿でマーク・ディビスのものとして引用した下記の発言は、そのような背景をもった上でなされたものだ。

  • 「確かに日本の携帯電話キャリアは今回のことで利益を受けるだろうが、これを提案しているのは、情報交換に関する現在の問題を解決したいと思っているUnicode会員企業(訳注:GoogleAppleのこと)だ。今のところ絵文字はUnicodeの私用領域で符号化され通用している。そしてそこには情報交換に関する厄介な問題がある」
  • 「率直に言って、絵文字の符号化には(訳注:あなたが符号化をすすめているような)古代文字などよりずっと高い必要性がある。もしあなたが安定した産業需要にもとづく提案に本当に反対したいというのなら、あなたはエキゾチックな文字を符号化するに際して、UTCでは今よりも少ないサポートしか得られないだろう」

第4回, page.3

ここで言われている「安定した産業需要」とは、1億に近い巨大なユーザーがUnicodeの私用領域をつかい情報交換する日本という「マーケット」に他ならない。したがって問題になるのは、そのマーケットにどのような手法を用いてリーチすれば効率的かということだ。そうした思考から導き出された解答こそがソースセパレーションだろう。

つまり、Unicodeコンソーシアムという組織の発想からすれば、ソースセパレーション採用は至極当然のことと思われる。そして一旦ソースセパレーションが採用となれば、liang_kai氏が指摘するように、白か黒か、オール・オア・ナッシングの問題となり、レパートリの一部の適否など問題ではなくなる。

つまり、Unicodeコンソーシアムは徹底的に商業的な要請から絵文字を捉え、その収録の手法としてソースセパレーションを考えていたわけだ。

では、絵文字の提案は上記のような商業的な要請からのみ考えればすむのだろうか?

実に興味深いことに、現実はそうではない。絵文字提案はUTC会議での承認後、今度はISO/IEC 10646での承認を求めてダブリン会議に提案される。その議論の記録はEmoji ad hoc reportとして公開されている(抄訳を師茂樹さんが公開してくれている)。

ここでは10の国を表す絵文字が否認された。そしてEmoji Compatibility characterとして提案されたiモード等のロゴ66文字は、アメリカNBが自ら取り下げている。そこでの議論の結果を一言で表せば「国際規格に入れてはいけない文字がある」というもののように思える。

特定の国を表す絵文字はまさに「入れてはいけない文字」だからこそ否認されたのであり、Emoji Compatibility characterは「入れてはいけない文字」であることが明らかになったからこそ取り下げられたと考えられる。

そこでダブリン会議までの流れを一言にまとめると、次のようになるだろう。Unicodeコンソーシアムが商業的な要請で提案した文字を、WG2は理念上の問題から(一部を)否認した」

通常、私達が使うコンピュータに実装される文字コードは、Unicodeとしてしか認識されない。しかしその裏には、普段はあまり目立たないISO/IEC 10646というもう一つの顔が隠されている。UnicodeISO/IEC 10646文字集合を共有する。しかしその内実は明らかに互いに矛盾している。まるで裏と表に違う顔を持つヤヌス神のように。

商業的に行動するUnicodeと、理念的に行動するISO/IEC 10646。絵文字について作用したこうした矛盾が、私達エンドユーザーにどのように作用するのか? 個人的にはまだよく分からないけれど、けっこう悪くない気がしているのだが、皆さんはどのように考えられるだろうか。

あれ、第5回に書くことを書いちゃった? まあいいか。