1950年代初頭に略字体が一般的に使われていたことの意味


さて、先日の発表を粗っぽくまとめると、「1950年代初頭には表外字に略字体が、かなり使われていた」ということになりましょうか。ここで「かなり」と書きましたが、具体的には新聞社のうち朝日新聞、印刷会社のうち大日本印刷について、明確な資料があるということです。つまり「略字体が主流だった」とまで言っている訳ではない。しかし無視し得ないほどの広さで使われていたとは言い得る、そんなところです。この「かなり」をもう少し精密に計測したいところですが、今後まだ資料は出てきて、範囲はもう少し広がるような感触を持っています。

ところで、この'50年代における略字体使用が、現代に生きる我々にとって、どのような意味を持つのでしょう?



レジュメにも書きましたが、大日本印刷では1993年にCTSラインにおける社内ルール「基本文字規定」が制定されるまで、『活版の栞』にある略字体が使用されたと考えられます(活版のラインについてはルールはありませんでした)。つまり'90年代まで略字体のデフォルト使用はつづけられたようです。

つまり、2007年1月に康熙字典体に改める朝日新聞は当然として、大日本印刷においても'90年代のある時期までは、基本的に'50年代当時のまま略字体が使用されたのではないか。

こういうことに先入観は禁物なので、あまり書くべきではないかもしれませんが、ぼくが今考えているのは、'50年代の略字体使用の実態が、JIS C 6226-1983(83JIS)での大幅な略字体導入につながった可能性です。これに関しては、安岡孝一さんがこのブログに寄せてくださったコメントのなかで、以下のようなことをおっしゃっている。

『日本語情報処理の標準化基礎調査』(日本電子工業振興協会, 1980年3月)や『日本語情報処理の標準化に関する調査研究』(日本電子工業振興協会, 1981年3月)を読む限り、JIS C 6234プリンタ字形における「字形の簡略化」という方針それ自体は、野村雅昭さんが委員になる以前に、既に始まっているように思われます。で、その元を辿るとJIS Z 8903-1969に行き当たるので、野村雅昭さんを非難するのなら、なぜ林大さんも非難しないんだろう、むしろ林大さんの方が大物でしかもラジカルなんじゃないの、っていうのが、私のページの『JIS Z 8903-1969 機械彫刻用標準書体(当用漢字) 』のココロなんですけどね…。
http://d.hatena.ne.jp/ogwata/20060517/p1#c

ちなみに上記『JIS Z 8903-1969 機械彫刻用標準書体(当用漢字) 』では、当該規格において林大がさらなる略体化をすすめた例が報告されています。

83JISの混乱の原因を、ただ一人の責任に帰するのは無理があります。もちろん野村氏に責任がなかったとは思いませんし、この方にはもっともっと証言していただきたいとは思います。しかしあれだけの大きな変更を一人だけの意志でできたと考えるのは、あまりにナイーブではないでしょうか。83JIS以前、実際に略字体がどの程度、そしてどんな場所で使われてきたのか。また規範のなかで略字体はどのように扱われてきたのか、そういうことを踏まえると、83JISという規格はもっともっと違う捉え方ができるはずです。

もちろん'50年代の資料をそのままJIS C 6226-1983に接続するのは無理があります。まだまだ中間を埋めなければならないことは多い。それでもこれらを大きな一つの流れのなかにあるものと考えて良いように、今のぼくは思うのです。

1997年、日本文藝家協会の「漢字を救え!」キャンペーンは、簡単に「略字体への嫌悪感」の表明だったとまとめられるでしょう。そして2000年の国語審議会答申「表外漢字字体表」により、表外字の略字体は22字の簡易慣用字体を除き、正式に「漢字使用の目安」外にあるとされました。今後の新常用漢字表(仮)の推移を見守る必要があるけれど、国語施策の上からは、ひとまずこの22字以外の表外字の略字体は「死んだ」と言ってよいでしょう。

そうすると、2000年の「死」に至るまで、略字体の誕生と繁殖、衰退の歴史が比較的コンパクトに描けることになりますね。これが分かれば、字体というものの実体にずいぶん近くまで迫ることができるのではないでしょうか。今後ぼくがやりたいことはこれです。

ただし、さすがにここまで話が拡がると、コンピュータ紙であるINTERNET Watchさんの連載には収まりませんな。つまり書く場がない。ブログやウェブだけで書きつづけるのは、いささかしんどいものがあるますね。どうにかしなければならないけどなあ……。

最後はちょっと弱気になっちゃいましたが、とりあえずこのようなことを現在目論んでおります。