米澤嘉博さんが亡くなった

何をどう言えばよいのか、とにかく米澤さんは去ってしまわれた。
二十年ほど前には連載をお願いしたり、
戦後マンガ史のデータ集大成の本を作ろうとしたり、
ごく頻繁にお会いしていたものだが、この十年は交流が途絶えていた。


故人の人柄を思い出すとき、飄々というのが一番似つかわしい。
いつもスリムのジーンズにジャンパー、肩にはショルダーバッグという
まるで大学生みたいな格好でふらりと編集部にあらわれ、
そこら辺の椅子に座って、たてつづけにハイライトをふかしていた。


ぼくのような年下にも、なにも偉ぶることなく接してくれた。
いつも早口で、山のような沢山のアイデアを話してくれた。
ただし1981年だったか、コミケット分裂騒ぎのことを思い出せば、
一旦事があれば果断と言うべき行動をする人だったように思う。
やはり信念の人だったのだろう。


当時の話だけど、コミケット準備会は入場料をとり、
米澤さんを社長とする商業組織にすべきだと
多くの周囲の人から勧められてきたと聞いている。
しかし米澤さんは頑として採ろうとしなかった。


今はどうなのか知らないけれど、1回開催するごとに総括を出し、
そして解散してしまうという準備会の組織のあり方は、
やはり米澤さんあってのものだったと思う。
そういう青臭さを、現実のものとして維持し発展させられたのは、
米澤さんの中に、確固としたものがあったからだ。


大阪のSF大会に取材に行った際、知り合いの事務所に泊まらせてもらったら、
米澤さん率いる準備会の一行と鉢合わせしたことがあった。
あの時はいったい何を話したのだろう。
ずいぶん盛り上がったような記憶があるが。


最後に話したのは結婚した直後、下北の焼肉屋だった。
夕ご飯を食べようと店に入ったら、ばったり米澤家一同と会ったのだった。
もう10年も前のことだ。
あの時は何を話したのだろう。なにも思い出せない。
もっとちゃんと接していればよかったのだ。
後悔しても、もう遅い。


訃報を聞いた後、何人かこれまた十年ぶりくらいに知人と連絡を取り合い、
ついでに近況を確かめ合いアドレスを交換したり、つかのま昔のように話し込む。
電話を切った後に、はたと気づいた。
米澤さんが亡くなりでもしなければ、この電話はかけなかった。
まさに、遺徳。


謹んでご冥福をお祈りいたします。