鳥海さんが言いたかったこと

一昨日になるが、JAGAT(日本印刷技術協会)で「フォントのデザインと役割」と題して、かつての写研のエースデザイナー橋本和夫さん(本蘭明朝や紅蘭楷書など)、それに字游工房の鳥海修(とりのうみ、と読みむ。ヒラギノ游明朝体など)さんの講演があり行ってきた。


ありがたいことに、JAGATは文字関係のセミナーがあると僕を招待してくれる。世の中に本当に無料のものというのは少ないが、ここでもJAGATは招待と引き替えに、なにかセミナーを盛り上げるような質問をすることを期待しているのだろう。もちろん、本当にそう言われたわけではないが、僕は勝手にそう解釈して招かれて行くたびに質問をするように努めてきた。実際、JAGATのセミナーは勉強になるものが多いので、これからもご招待いただきたいしね。


ただ、今回の鳥海さんの講演ではちょっと質問に困ってしまい、ついに何も言えなかった。いや、別につまらなかったわけではない。逆にとても刺激的で、今も頭の中で鳥海さんの声が聞こえているくらい。ただ、ご自身で冒頭「このところずっとかんがえていることを初めて話すので、まとまりのない話になるかも」と断っていたように、整理がついてなかった。しかし、たぶんとても大切なことを言おうされていたのだと思う。あの時、鳥海さんが何を伝えたかったのか、僕なりに考えたい。


鳥海さんは、始めのところで「書体は売れない。どうすれば売れるのだろう。このところ、そんなことばかり考えている」と嘆いてみせる。「どうやったら書体(フォント)を売って生活が成り立つのか。しかし成り立たない」と。ここで、まず聞いているこちらはドキっとする。


そして、「そもそも明朝体にそんなに違いはあるのか。もちろん自分は一目見て違いが分かる。でもそれは商売だからであり、一般にはどうなのか。そういう違いに意味があるのか?」とさらに突き放す。これがあの游築見出し明朝をだした会社の代表の発言なのだから衝撃的。道を歩く度に、ああエヌケーエルだとか、MB101だとかブツブツ言って気味悪がられているこちらは、ううむと考え込んでしまう。


「文字に表情を持たせることは可能なのか。そもそも明朝ゴシックに縛られてよいのか」


ずいぶん深い疑問だ。おそらく、この「文字に表情を持たせること」というのは、最初の「売れない」の嘆きにつながるはずだ。つまり、文字に誰もが分かる表情を持たすことに成功すれば、書体も売れると。そして、それをするためには、明朝だのゴシックだの既製の伝統的な枠組みに縛られててよいのか、ということなのだろう。


そして、次々に文字をスクリーンに映し出していく。欧陽詢顔真卿懐素など古典的な法帖にはじまり、大正時代の図案文字、花森安治河野鷹思山名文夫のレタリング。そして、「こうした手書きの文字、つまり見せる書体の個性というのを、書体に生かせないだろうか」と続ける。そして、


「書体には見せる書体と読ませる書体がある。今まで自分は読ませる書体をずっとやってきたけど、これでよいのか疑問をもつようになってきた」


この「読ませる書体」の代表例が本文書体であるはず。鳥海さんはさらりと言っているけど、これはとても考えさせられる。よく書体は水に喩えられる。きれいな水がきれいであるということを人に意識させないように、すぐれた本文書体も水のようでなければならない。そして、そのような本文書体を作ることこそが、タイプフェイスデザイナーの目標。これまで一般的にそのように言われてきたはずだ。なのに鳥海さんは、それに対し正面から疑問を投げかけている。


次に字游工房でやっている書体の評価基準の話になる。おそらくセミナーとしては、字游工房の企業秘密(?)とも言えるこの部分が一番の「売り」だったはずで、実際それは興味深かったのだが、でもここで鳥海さんがテーマにしていたはずの「表情のある、見せる書体」との関連が、僕にはよく分からなかった。なぜなら、ここで示されたテクニックは、見せる書体の対極にあるはずの「読ませる書体」のものだから(こちろん、このテクニックを応用して、ということなのだろうけど)。なのではしょらせてもらう。


ここで話は一転。コーポレートフォント(企業制定書体)の話になる。どうしてコーポレートフォントが必要なのか?


いくつかの例を挙げた後、サントリーのコーポレートフォントについての話になる。その制作には字游工房も参加したのだが、どうしてサントリーがコーポレートフォントを必要としたのだろう。まずサントリーは多業種になってきたという現実がある。全体で3,000人もの社員がおり、その3,000人が自分の好きなフォントを勝手に使っていると、会社としてのまとまりがつかなくなる。「この書体を使え」と言うことが、社内へのメッセージになる。特定の書体を使わせることで、社員への仕事に対する意識改革、仕事に対する意識付けになる。その書体を使うことで、それがコーポレートフォントではないか。


僕が思うに、これは書体が企業全体のまとめ役になりうるということを言おうとされたのだろう。逆に言えば、書体には、本来そのような力があるのだし、そこに「生活が成り立つ」可能性もあるのだと。


そして、スクリーンに映し出されたのが「南無妙法蓮華経」のお題目(例えばこんなの)。鳥海さんは言う。これは誰が見ても日蓮宗を象徴している。こういう日蓮宗の題目のように、伝統的に伝えられてきた統一感を持たせられる特別な文字があるとコーポレートフォントを作りやすい。字游工房でそういう依頼が来たわけではないが、もしも日蓮宗からコーポレートフォントの依頼があれば、この南無妙法蓮華経の字から発想するに違いない。このへん、もちろん冗談めかして言っているが、書体の本質をついた例ではある。


最後。「コーポレートフォントをつくる際、芯になるのは個性や表情だけではできない」そういう言葉で締めくくられた。しかし、先の「表情のある、見せる書体」とコーポレートフォントの関係はどういうものなのだろうな。分からない。単純にイコールではないし、単純に違うものでもないはずだ。書体が置かれている立ち位置とか、作る上での姿勢とか、そういうところだろうか。


以上、非常に恣意的なまとめで、標題の疑問には全然答えていないのだけど、駆け足で鳥海さんの講演の報告を試みた。それにしても、字游工房はこれから何をしようとしているのだろう? 楽しみのような、怖いような。