ある夫婦の会話

妻はマンガ家をしている。その彼女がアニメについてのテレビ番組への出演依頼をうけた。1本の伝説的なアニメ作品を取り上げ、それを立場の違う5〜6人が座談するという形式。先日その打ち合わせを駅前の喫茶店でしてきた。話を終えて帰ってきた時の話。


彼女はこの依頼を非常によころんでいた。子供の時から「気が狂ったようにアニメばかり見てきた」こともあるのだが、話すのがマンガでなくてアニメだから。ふーん、マンガだってアニメと同じように見狂ってきただろうに、なぜ?


評論家の人たちは偉い。自分が思ったとおりのことを言うから。マンガ家である自分は、たとえ思っていることでも、マンガについてだと全部は話せない。自分に跳ね返ってくるから。自分で言ったことが重荷になって、マンガが描けなくなるから。それをやっている人はいるけど、自分はできない。最後のところは口をつぐんでしまう。だけどアニメなら関係ないから、思ったことを気楽に話せる。


なるほどね、わかる気がするよ。俺は評論家じゃないけど、今の話で言えばそれと同じ立場だからね。俺たちはね、後に引けないんだよ。今まで突っ張ったことを言ってきた手前、もう生温いことを言うに言えないんだ。だけどね、別に平気な訳じゃない。本当は怖くて怖くて仕方ないんだ。


じつは今、あるパソコンメーカーのOSのちょっとした欠陥について書いている。なんで今まで誰も気づかなかったんだろうっていうような分かりやすい欠陥。現行から2つ前のバージョンなんだけど、メーカーは分かっているはずなのに、今まで何も発表していない。これを使ってるユーザーもまだいるはずなのに。
ここの会社には個人的に尊敬するエンジニアがいるんだけども、俺は思うんだよ、この原稿を発表した後も、以前と変わりなく彼は付き合ってくれるだろうかって。どうかな、無理かもしれない。大好きな製品だし、本当は無いことにしてしまいたい。


情けないんだけどさ、原稿を書いていて、気が付いたらメーカーの立場に立って言い訳してたんだよ。この欠陥は仕方ない、やむを得ないものなんだって。俺はいつも途中で人に原稿をチェックしてもらっているんだけど、その人に指摘されて初めて何を書いていたか気が付いた。まあ、それだけ怖いんだよね。いや、もちろん厳しいことを書いて発表するんだけどね。だって読者が許してくれないもん。小指の爪先くらいの本当に数少ない人たちだけど、彼らの信頼は裏切れない。